

『茶道美談』という古い本に載っていました。
渡邊宗安というのは、まさに萬代屋宗安の事です。
萬代屋(もずや)というのは屋号で、苗字は渡邊だったんです。
その後、明治になって屋号からとった萬代を名乗ったということです。
ですから、萬代屋宗安をネットで検索しようとすれば、渡邊宗安、あるいは渡邊新太郎も検索しなければなりません。
この『茶道美談』に書かれている話は石田三成や黒田長政、徳川家康が関わったものですが、所持していた肩衝茶入れにまつわる逸話は比較的広く知られている事です。
肩衝茶入れの他、堺鑑でも書かれていますが、萬代屋道安が投げ頭巾の茶入という大名物を所持していました。
萬代屋道安はおそらくは萬代屋宗安だろうと言われていますが、そのアタリはよくわかりません。
そしてこの投げ頭巾の茶入は、千利休が切腹を命じられたときに、宗安が秀吉に差し出して助命を嘆願したのですが受け入れられなかった、とされています。
たぶん、肩衝と同じ様に、取られたままになったんでしょうね。
『信義を重んず』の文章で何が信義を重んず、に値するのかといえば、一度石田三成に売った物で、自分はすでに対価を得ていて、今はただ預かっているだけであるから、なにも惜しいことはない、そこが潔い、筋が通っていると、家康は感激したんでしょうね。
普通の商人なら、『なんかくれ!』と言うのでしょうが、宗安はさっさと差し出した。
『あかんというても、とるんやろ』と言ったと書いてありますが、沙弥宗安と書いてあるように、仏門に入っていたわけですから、茶道具への拘泥も捨てきっていたんでしょうね。
ここらは、『さすがは、堺の商人!』という感じがしますね。
大名、ひいては天下人とまさに対等のやりとりです。
最後の部分で『宗匠の利用』の件がありますが、これを読んでも、宗安が利休の死後、皮ってフィクサーの役目を担っていた事が解ります。
石田三成、つまり西軍に荷担したという言うことで、東軍に追われて堺を離れたということですが、この時に宗安が建てた萬代家先祖代々の供養塔が堺の延命寺に残っています。
萬代家ゆかりの方は是非お参りしてください。

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